吊革が車体の揺れに遅れて、ゆらりと音もなく同じ方向へ傾く。足元がよろつき、サイズの合わないハイヒールが脱げかかる。ふらついた拍子に、体が隣の中年男性にぶつかる。彼は小さく舌打ちをして、慣性に傾いた自身の上体を起こし、私を押し戻した。ばつが悪いようで、夜景を写す車窓を見れば、妙な表情の誰かがいた。それが自分だと気が付くのに、しばらく時間を要した。

『急停車致します。揺れますのでご注意ください』

 アナウンスに吊革を掴みなおし、吊るされるようにそこに体重をかける。大きく音を立てて軋む車体が、仰々しく道半ばで立ち止まった。車体の揺れによろけた隣の女性のフラットシューズが、私の足を踏みつける。隣の女性は謝るそぶりもなく、手元のスマートフォンに目を落としていた。今日の私には怒る元気もないのに、そう思う。

『安全確認のため、一時停車いたします。お急ぎのところ恐れ入ります』

 そういえば、今日は仲のいい同僚2人が珍しく定時で退社していた。別チームの仕事のできる先輩と、隣の部署の少し怖い先輩も、皆同じような時間に退社していた。仲良さげに談笑しながら帰って行く彼女たちを尻目に、残業をこなした。正直言うと認めたくないし、気が付きたくなかった。でも多分、というかおそらく、なんというか十中八九、彼女たちは今頃同じテーブルを囲んで、酒でも飲んでいるのだと思う。

『安全確認を行っております。しばらくお待ちください』

 別に、どうってことないけれど。特に、行きたかったわけでもなかったし。というか私には仕事が残っていたわけだし。特に今日までにやらなければならない仕事でもなかったのかもしれないけど。とどのつまり、別に彼女たちが飲んでいようが、たとえ誘われたとしても元より私は行けなかったわけで。そういうわけで別に仲のいい同僚が、自分の知らないところでよく知らない人たちと仲良くしていたからって、そういうことにいちいち気を揉んでいるわけではない。

『お待たせ致しました。発車致します』

 でも、少なからず認める。今日はなんだか、気分がよくない。




 かぎ、かぎ。両手をコートのポケットに入れて中をまさぐってみるが、無い。どこに閉まったんだっけ。コンビニで買ったビールと冷凍食品のパスタが入った袋ががさがさと揺れる。こういう忘れっぽい性格もどうにかしたい。今朝も急いで家を出たが、あのときどこに閉まったのだったか。鞄の奥に手を探り入れるも、行き当たらない。こういう自分のそそっかしいところが嫌いだ。いや、今朝会社で鞄のポケットに入れ替えたんだったか。そのとき、ひとりでに錠が落ちる音がした。

「キミは本当に学習しないな」

 15㎝だけ開いた扉から、こちらを見下した顔を覗かせる。奴は、鞄に手を突っ込んで必死に底をさらったままの私の体勢を鼻で笑って、満足したように扉を閉めて室内へ戻って行った。

——2DKの手狭な我が家には、心底癪に障る同居人がいる。

「週に4回はドアの前でガサガサ荷物漁ってまごついているの、全くもって理解できないな。毎日毎日飽きもせず鍵を行方不明にする不屈の精神には敬服するよ」

 ドアを開けて家に入ると、露伴が小姑じみた小言を続けている。

「それは悪うござんした」

 そう言いながら靴を脱いで、ダイニングに向かう。八畳のダイニングには、冷蔵庫とテーブルと電子レンジ、小さなテレビと大きめのソファーがあるくらいだが、そこに大の大人2人がいればもはや狭小住宅だ。コートすら脱がずに冷凍パスタを開封して、電子レンジに突っ込む。やや乱暴にレンジの扉が閉まった。

「毎度我慢ならずドアを開けに行く僕の手間も少しは考えてほしいもんだ」

「いや~我が家に自動ドアが導入されてよかった」

「……キミがたとえ鍵を会社に忘れても、次からは絶対に開けてやらないことに今決めたよ」

 ソファーのど真ん中に偉そうに腰かけている自動ドアの話を聞き流しながら、コートを脱ぐ。よく喋る自動ドアはさておき、洗面所で手洗いうがいをしてから居間に戻る。露伴はまだぶつくさ言っているが、その小言をかき消すかのように、電子レンジがけたたましく鳴った。解凍パスタを回収して、わざとらしくソファーの端に腰掛けると、嫌そうな顔をした同居人が控えめに場所を空けた。

「それで、今週分は本日無事入稿ですか」

 パスタを頬張りながら聞けば、露伴は手元の画集をめくりながら呟く。

「ああ、今週はチョイと休みが欲しかったんでね」

「最近よく出かけるじゃん。彼女でもできたの」

「彼女ねえ。自宅が珍獣に占拠されていなければすぐにでもこしらえたい」

「10年来の唯一の友人を珍獣呼ばわりしてるから彼女できないんじゃない」

「誰が唯一の友人だ」

 事実、岸辺露伴は、私がまだ鼻水を垂らして外を走り回っていた頃からの友人である。彼がM県S市から越してきた際、私の家の向かいに一家揃って居を構えたことがきっかけで、彼と接点を持ち始めた。その頃の岸辺露伴といえば、まだあどけなくてどこか不安げな様子の、それはそれは今とは比べようもなく可愛らしい男の子だった、はずだ。多分。いや、もはや一種の幻覚だったかもしれない。

 学校以外で初めて目にする年下の男の子という存在に、それまでは洟垂れ小学生であった私も、この辺りでおねえさんにならねばと、初めて自我らしきものが芽生えた。その後日に日に尊大になっていく変人小学生を甲斐甲斐しく構っているうちに、変人小学生は変人漫画家へ、おねえさんになりたかった洟垂れ幼女は腐れ縁の年上の友人と変貌を遂げた。

かくして高校時代に既に漫画家としてデビューしていた岸辺露伴と大学時代に一人暮らしを切望していた私が、利害の一致でルームシェアすることになったのももはや数年前。時の流れは知覚するよりもずっと早く、今や学校を卒業した岸辺露伴は漫画家として生計を立て、私は大学を卒業してしがないOLとして働いている。いつの間にやら売れっ子漫画家となった、幼馴染様とのこの手狭なマンション暮らしにももはや慣れたものだ。

「でも漫画家はホント気楽でいいなぁ。なに、週休3日って」

 嫌味な口調になったことに、口から言葉が漏れた後に気が付く。別にそんな言い方をしたかったわけではなかったはずが、話題に詰まってついそんなことを独り言ちた。残り半分のパスタを誤魔化すようにかきこむ。

「雇われの方がよっぽど気が楽だと思うけどね」

「いやー私なんか……」

 私なんか。何でそんな言葉が出たのか、自分でもよくわからなかった。

別に今日は特段大きなミスもしていないし、トラブルもなかったけれど。電車で嫌な中年にぶつかったとか、女に足を踏まれたとか、それくらいで。そう、しいて言うならば同期の帰り際が少し気になったくらいで。ああ、いいなあとか。私も行きたいとか、誘ってほしかったとか。私のいないところで皆が仲良くしているのに、どうしようも不安になっただとか。

「……私なんか、今日もダメだよ」

 力のない語尾は、露伴の鼓膜まで届いたのか、そうでないのか。露伴がひときわ大きなため息をつくと、モノの多い部屋の中から音が消えた。どこかで電車が人を運ぶ音だけが、近づいたり遠ざかったりしている。

 スマートフォンの画面にプッシュ通知が光っている。友達、友達じゃない人、知り合い、知り合いでもない人が、交互に会話している。自分を差し置いてただひたすらに流れていく会話が、一層自分を孤独にする気がする。誰とだって繋がりやすい世の中になったのに、学生時代は毎晩遊び歩くような友達がたくさんいたのに、こんなにも簡単に人は1人になれるのだと思う。

露伴が自身のお気に入りの画集を閉じた音で、没入していた意識がふっと途切れた。

「明日どうせ暇なんだろ」

 突然そんな風に話題を改めた露伴は、画集の頁の間から、2枚の紙片を取り出した。やや得意げに見せつけている様子だったが、それが一体何なのか判然としなかった。

「なんとここに偶然にも2枚、ド・スタール展のチケットがある」

「何、ド・スタールって」

「ニコラ・ド・スタール。画家だよ。抽象画と風景画のギリギリのせめぎ合いを描くのが得意なんだ」

「……それで?」

「明日11時に家を出るから、キミも来い」

「えぇ、私絵なんかわからないのに……」

「いいから来いよ。あんなに泣ける画家は後にも先にも現れない」

 えー…と一言、生返事を残す。普段露伴と出かけるのなんて、おひとり様何個までの特売品の買い出しに行くくらいのものだ。2人で遠出なんてもしかすると、何年ぶりかの話なのではないだろうか。しかも、露伴の方から。珍しいこともあったものだと思いながら、無言で差し出してきたチケットの1枚を、露伴から渋々、おそるおそる受け取った。

受け取ったチケットの表面に縮小コピーで描かれた絵は、数色で描かれた落書きにしか見えなくて、もう既に、きっと私なんかでは、全然わからない世界なんだろうと思った。私がしかと受け取ったのを確認して自室に戻った露伴の背中は、一瞬知らない人のそれに見えた。



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