結局、「パリの屋根」は適当に書いた沢山の四角にしか見えなかったし、「海」なんかは、もはや海なのか空なのかすらわからなかった。そもそも、子供の落書きにしか見えない絵を気取ったように飾った小規模な展覧会は、どこか鼻につく作りで、どうにも肌に合わない。そんな前衛的なのか適当なだけなのかわからない絵の数々に、露伴は感極まってすすり泣いていた。どの辺りに泣く要素があるのか見当もつかないけれど、周囲を憚らない露伴の様子が恥ずかしかったので、他人に見えなくもない距離感で彼の後ろをついていった。ただ、食い入るように多々ある作品に魅入っては泣く露伴の後姿を、遠巻きに眺めているのは少しだけ楽しかった。

 昨日本人が言っていた通り、あんなに泣ける画家の作品群にさぞ満足したのであろう露伴を引きずり、会場を後にした。が、鼻水をすする露伴を連れて電車に乗るわけにもいかず、近くの喫茶店に入る。露伴は私が紅茶を頼んでからも、必死にあの抽象画たちの素晴らしさを訴えていた。

「やっぱりあの画家、僕にはおよそ及ばないが、天才だよなァ。あんなに単純な構成なのに光と奥行きが感じられるんだ」

「まあ、そうだね」

 また生返事を返す。声を大にして語る露伴を、アールグレイの水面越しに見ていた。彼が大枚を叩いて集めている画集とやらにも、きっと名を連ねている高名な画家なのだろう。同じような絵を家で見たことがあるような気もするが、もはやその記憶も曖昧なくらい、わからないだらけの世界だった。もしかすると、私は目の前にいる彼自身のことも、実はよくわかっていないのかもしれなかった。

 紅茶の中で、鏡像が大きく揺らいだ。

「あの絵を見れば、少しは君も気が晴れただろ」

 顔をあげると、露伴は満足げにほくそ笑んでいて、私が面食らった顔をしているのも意に介していないようだ。

「え、何。

 もしかして、私を気遣ってくれてたの」

 私がそう声に出すと、満足げな露伴の表情はいつの間にか、いつもの露伴に戻っていた。露伴はたじろいだ一瞬を隠すように、ぬるそうなコーヒーを一口すすった。一呼吸おいて、絞り出したかのように言葉を吐き出す。

「……何だよ」

「いや、全然、何でも?」

「その癇に障るニヤけ面をやめろ」

「いや、全然、ホント。ニヤけてなんかないよ」

 私の知る岸辺露伴は、自分以外を大切にするやり方の分からない、尊大で高慢で、不器用な幼馴染だ。そんな露伴が、他人へ向ける優しさは、時に独りよがりで、どうしようもなく分かりづらかった。そういえばこんな彼だからこそ、今の今まで私は、彼の唯一のおねえさんであり続けたかったのだと思う。

 郊外にある喫茶店は人もまばらで、店内には私と露伴の声だけが反響していた。ブラインドから差し込む斜光は、飴色の街路樹に反射して露伴の横顔を照らす。口元を覆ったまま頬杖をついて、落ち着きがなさそうに風に巻き上げられて踊る落ち葉を眺めている。私は緩む口元に残りの紅茶を全て流し込んだ。

「露伴、折角この辺まで来たんだから、近くの公園行こうよ。有名なやつ」

 まだ緩み切った顔の私の急な一言に、目の前の男は信じられないほど嫌そうな顔をした。「何で僕が君なんかと、」と低い声音で切り返す露伴に、私はたたみかける。

「いいじゃん、辛気臭い同居人の気晴らしに付き合ってよ」

 私の追撃に、また、露伴は降参したように大きなため息をついて、黙って立ち上がった。まずい、怒らせたかな。「待ってよ」とおろおろと私が身支度をする間に、露伴は会計を済ませて、店の入り口に向かっていく。思った以上に大きな背中を、慌ただしく追いかける。露伴は店の入り口で、首だけで私の方を振り返りながら、街路樹の続く並木通りを指さす。

「多分あっちだ。早く行くぞ」

結局、ド・スタールのいいところはひとつもわからなかったし、目の前の露伴のことだって、何ひとつわかっていない気がする。それでもこのまま、何ひとつわからなくたっていいと思った。



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