公園は想像以上に広く、ヒールのある靴で足首を捻りながらも、紅葉で有名なその小路を浮かれ歩いた。赤や黄色に色づいた遊歩道のあちこちをきょろきょろと眺めては、何か独り言のように喋りながら振り返る。露伴はそんな私に、適当な返事しながら笑った。途中、ベンチでスケッチを始める露伴を横で眺めながら、やっぱり何だかんだで絵は上手いんだと、改めて知った。露伴は一人で見て回ってくれば、と言ったけれど、何となく隣に座って、その手元を見ていた。

 ラーメンが好きな友達から、駅の近くにおいしいラーメン屋があると聞いていたので、食べて帰ることにした。露伴は「まあまあだな」なんて言っていたけれど、あれは思った以上に美味しかったときの反応だった。

 憎まれ口や冗談も、今日はいつもよりお互いに少なかった気がした。この一日が、ずっと終わらなければいいと思った。

「あーホント楽しかった」

 朝は座れないボックス席に、腰掛けながら言う。郊外から都心へと戻る電車でも、そう遅くない時間ではまだ閑散としていた。露伴は少し笑って「そうか」とだけ答えた。

『発車致します』

 車内アナウンスとともに、ゆっくりとシートに体が押し付けられる。そのまま上体を椅子に預けると、適度な車体の揺れや室温、一日の疲れも相まって、微かに眠気を誘う。どうせ帰る場所は同じだし、起こしてくれるだろうから、眠ってもいいだろうか、なんて考えながら目を閉じると、寝ぼけた頭が勝手に独り言を零す。

「幸せだなぁ」

 勝手に口から零れた言葉ではあったけれど、本心だった。小恥ずかしいことを言ってしまったかなと、そのまま眠ろうとするふりをする。寝ぼけたことを言ってるなと笑われても、まあいいか、と言えるほど満たされた気持ちだった。窓の向こうを見ていた露伴がこちらを一瞥して、また少し笑ったような気がした。

「僕もだ」

 

「僕も、あの家を出る前に、君が笑っているところが見られてよかった」

 微睡が波のように引いていく。絞り出されたのは、微かな「え、」という言いかけの言葉だけで、それに遅れて、横にいる露伴の顔を見た。電車の窓際に頬杖をついて、いつになく優しい表情で私の方を見ている露伴は、らしくなく穏やかな口調で話した。

 

 子供のころ住んでいたM県S市に引っ越すこと。元々東京は好きではなかったこと。一人で家を持てるようになるまで待っていたこと。引っ越しは三週間後であること。本当は前から話そうと思っていたこと。最近のうつむきがちな私には、なかなか言えなかったこと。だから今日、こうして二人で出かけられてよかったということ。

 

 露伴はそんなことを語って、「そういうわけだから」と締めくくった。

 窓の向こうにネオンの粒が流れていく。いつもより柔らかい露伴の表情の向こうで、景色がちかちかと瞬く。都市部へと向かう車窓からは、星は見えない。けれどもしかしたら、露伴がこれから行く街にならそれもあるのかもしれないと思った。そう思うと露伴の変に腑に落ちたような表情も、滲んだようにきらきら輝く街も、途端に見ていられなくなって、項垂れるように自分の膝に目を落とした。

『特急の待ち合わせを致します』

 車体はゆっくりと減速し、判を押したように正確に止まる。空気が抜けるような音とともにドアが開けば、ホームから車内へ、冷たい外気が流れ込んできた。いつの間にか秋になっていた。一体何回目の秋なのか、いつから秋だったのか、そんなことももうわからなくなってしまった。 いつかこんな日が来ることを心のどこかでわかっていて、それでも、気が付きたくなくて、認めたくなかったのだと思う。 

「…あー……」

 いっぱいいっぱいだった。何から聞いていいのかもわからなかった。二の句を継げない沈黙と、立ち止まった車内の妙な静寂が、信じられないくらいに長く感じた。私は露伴にどうしてほしいのだろう。私は、今、露伴に何を言うべきなのだろう。ほかに見つめるものもなくて、目を落とした先の自分の手を、強く強く握りこんでいた。

「あの、さ」

今、何を言えばいいのかわからない。けれど、きっと今は言葉にできなくても。いつか、今の気持ちの意味がわかる日が来て、そうしたらきっと。だから、それまでは。

矢も楯もたまらなくなって、顔を上げて、露伴の目を真っ直ぐに見た。

 

 

「まだ、行かなくていいじゃん」

 

 時間を断ち切るように、特急電車が走り抜けていく。嵐の夜のように、全てを奪い去る音とともに、一瞬が駆け抜けていった。露伴は私の顔をただじっと見つめていた。

 特急電車が過ぎたあと、露伴は見たこともないくらい優しく、少しばつの悪そうな顔をして、言うのだった。

 

「悪い、もう一度言ってくれないか」

 

『お待たせ致しました。電車が、発車致します』

 車内アナウンスが、長い長い静寂を破る。暖房の効いた車内を空気圧が閉じ込めて、電車は今にも走り出そうとしていた。

 

「……ううん、何でもない。」





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