あの日の露伴の決断は、私と露伴の関係になにがしかの変化を、わずかにでも与えるのかもしれない。なんて、心のどこかで思っていたが、あの日以来私と露伴の関係は、何1つだって変わるところはなく、毎日同じように憎まれ口を叩いて、繰り返し冗談を言っていた。もしかしたら露伴がここから去るなんてことすら冗談なのかもしれないと思うほど、何1つ変わらなかった。ただ、少しずつ露伴の部屋から消えていく荷物だけが、あの日の露伴の言葉が冗談ではないことを物語っていた。3週間という時間は、私たちが一緒に過ごした10年余りに対しては短すぎて、瞬くように感じられた。

「ただいま」

 すんなりと鍵を開けて部屋に入ると、少し肌寒く感じた。それがまだ暖房をつけるに至らないまでも、着実に温度を奪う季節のせいなのか、私の物だけが取り残されたがらんどうの部屋だからなのかは、判然としなかった。

「おかえり」

 一人の部屋には不釣り合いになるだろう大きなソファーに腰掛けて、いつも通りの露伴は、スケッチブックに絵を描いていた。露伴はこのソファーを餞別に置いていくと言った。どこかの誰かの作った良いものだということだけは、いつか露伴が語った通りに知っていたけれど、餞別といえど一人暮らしの部屋にはいささか大きすぎる、と文句を言っておいた。

「あのさ、明日、見送り」

 バッグを玄関に置きながら言うと、露伴はいつも通りせっかちに私を遮った。

「何だ、わざわざ。どうせ駅までだろう」

せっかちな露伴に畳みかけるようにして、私もいつも通りに言い切る。

「行くから」

 思えば、頑固者同士の、うまくいくはずがない同居だった。それでもなんだかんだこうして数年もともに過ごしていたのが、ある意味では今更ながら、奇跡みたいなことだったのかもしれないと思う。私の強い語気に、観念したように稀有な同居人は大仰にスケッチブックを閉じた。

「……わかった」

 そう言いながら、よく知ったような、まるで何も知らない背中が、来客用の布団しかない自室に消えていった。

 

 

 翌朝、私たちはがらんどうの部屋に鍵をかけ、駅までの短い道のりを一緒に歩き始めた。

「今日はほかに何か予定があるのか?」

「ないよ。なんで?」

「君が珍しく粧し込んでる」

「あー、そうね。合コンでも行こうかな。露伴も来たら?」

「君と昔一緒に行って酷い目に遭ったのを僕は忘れてないぞ」

「酷い目って……そんな悪いことしたっけ?」

「泥酔して僕が連れ帰った」

「あはは、そういえばそうかも」

「僕のソファーに吐こうとするし」

「そこが一番腹立ってるでしょ、実は」

「根に持つだろう、あれは」

「これからは吐いても文句言う人いないけどね」

「あのな、前にも言ったがアレは僕がイタリアに行ったときに特注で、」

「ナントカって偉い人の作ったソファーなんでしょ。知ってる知ってる」

「絶対来週にはミートソース零してるだろう、君」

「大丈夫、芸術的に零せる自信ある」

「結局零すんじゃないか」

「いや大丈夫、ホント、大事にします」

「ならいいがな。君この前もそう言って新しい服に」

「あーその話駄目。思い出したくない。お気に入りだったのに」

「そういうところが放っておけないんだよ、君」

「そう言うならさー……」

「そう言うなら?」

「……そう言うなら露伴だってそうじゃん」

「何だと」

「この前もイタリア旅行行ったときスラれて無一文だったじゃん」

「あれは不可抗力だ」

「露伴って意外と抜けてるからね、自分で気が付いてないだけ」

「君ほどではないね」

「まぁ私ほどではないけどね」

「そこは威張るところじゃないからな」

 お決まりのやり取り、くだらない内容、馬鹿みたいな会話。全部が終わってしまうものだと知って、初めて全てが惜しく思えた。当たり前のものが、こんなに稀有に思うなんて、知らなかった。きっと知りたくなかったのだ。露伴のことを、私はずっとわかっているつもりで、ずっとわかりたくなかったのだと思う。

 歩いてたった15分の距離を、新しいパンプスは歩きづらいとわざわざ言い訳してまで、いつもよりゆっくり歩いて、やっと駅に着いた。土曜の昼下がり、雑踏の中、露伴は駅前のロータリーで立ち止まった。

「ここでいい」

「あ、じゃあここでバイバイか」

「ああ、風邪ひくなよ」

「うわっベタな別れの言葉~もっとなんかないの」

「君はいちいち癪に触るな……」

「だってさー。絶対私たち電話とかしないじゃん」

「そうかもな」

「手紙とかも書くタイプじゃないでしょ」

「この時代に文通もな」

「だからこれが本当の本当に最後のお別れかもしれないんだよ」

「……そうなるかもしれないな」

「だから何かさ、ほら。何かない?」

「……何かってなんだ」

「いや……何かって、なんだろうね」

「……君は僕に何か言いたいことはないのか?」

「何かって……」

 言いたいことばかりだ。見ているドラマにあれこれ横から文句をつけるなとか。少し手を拭いただけのタオルをすぐ洗濯しようとするなとか。人の作った料理にいちいち点数をつけるなとか。会社の愚痴を言ったときに鼻で笑うのをやめろとか。

 私は今ここで何を言えば、露伴を引き留められるのだろうとか。

 露伴が、私が、あとひと匙分くらい素直だったら、言えた言葉があるのだろうか。今言えなかったとして、この言葉が自分しか知らない宝石箱の中に入れられて、慈しむことができるようになるまで、一体どれくらいの月日を要するのだろうか。

 露伴が大切にしているもののこと、露伴が描こうとしている未来のこと、露伴が進もうとする場所のこと、全部全部を、自分のエゴなんかよりも大切にしたのだと言えば、意気地なしで弱虫の自分に言い訳ができるだろうか。

「……楽しかった、ありがとう」

「僕もだ、礼を言うよ」

「向こうでも気を付けて」

「……ああ、君も」

 露伴はきっと新しい街で、好きな子なんかできて、私の顔なんかすぐに朧げになってしまうのだろう。その頃には私にだって、新しい彼氏ができていて、いつしか今日がどんな天気だったかなんて忘れてしまうに違いない。この別れ際も、いつかふと思い出すころには、酷く霞んで色褪せて「ああそんなこともあったな」なんて、笑って懐かしむことができるようなもののはずだ。

 だから、こんなに曖昧で美しいもの、自ずから壊してしまう勇気を、いつまでだって持てるはずがない。

「じゃあ、元気でな」

「うん、露伴も」

 露伴は、背を向けて歩き出した。

 肌を撫でる風は凍てつくほど冷たくも、取り立てて春みたいに暖かくもなかった。一瞬強く風が吹いて、足元の落ち葉が攫われていく姿に、少し目を奪われていた。またふと顔を上げると、改札の向こうに小さくなった露伴が消えていくところだった。

 露伴はほんの半身だけ、振り返ったように見えた。気が付くとその姿も、最初から幻だったみたいに消えてしまっていた。




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