シャーペンが動く音は心地いい。均質な罫線の上に整列する文字は、一糸乱れず白磁の舞台を叩く。エアコンの駆動音以外に音のない六畳間に、唯一の音が反響して、少しの眠気を誘う。今、自分の目の前にいる麗しい若君の横顔を見ながら、静かに眠れたらどんなに幸せだろう。靄がかかった頭と必死に格闘しながら、彼の運ぶペン先に目をやると、「あ」と口から言葉がついて出た。不意にこちらを振り返る顔が、私に『なんやねん』と問いかけている。不機嫌そうなその表情すら綺麗なのだから、若い男の子というのは卑怯だと思う。うすぼんやりその顔を眺めている目線をやっと逸らして、ペン先を指さす。

「えっと、そこ、間違えてるよ。『晴れならずといふことぞなき』だから、『晴れがましいと言わない人はいない』。二重否定だね。」

私がそう言うなり、若君は顔をしかめて小さく舌打ちをする。苦手科目が古典だと母君が言っていただけある。彼自身にも苦手意識があるのだろうし、そのおかげで私はここに来て女房役ができるのだから、願ったり叶ったりというもので、と、こんなことを考えているのも、彼らからすれば悍ましいに違いない。
 彼はため息をついてからまたノートにしかめ面を向けなおした。眉間にしわを寄せながら机に向かう彼の姿は過去の自分を想起させる。とはいえ、受験なんぞに悩まされたのももはや何年も前のことだ。懐かしいと息を吐く暇もなく、私はこれからも人生に踊らされ、足をもつれさせ、何度だって転び続ける。眺めている横顔は、かつての自分とは似ても似つかない麗しく若い男の子のもので。きめ細やかな肌、形のいい耳、長い睫毛。この感情は、寵愛なんかでは、決してない。

「あかん、もう無理っスわ。」

 若君が大きなため息を吐いたと思ったら、ペンを手から滑り落とし、そのままノートを閉じてしまった。平家物語も徒然草も、彼の心には何ら響かぬ御伽噺だったらしい。英語の得意な若君にとっては、せんせーしょなるでぐろーばるな世界の方が麗しくて、きっと遠い過去の薄汚れた文字の羅列になんか興味がないのだろう。とはいえ、それを肯定できる立場にない私は、彼のご機嫌をとってでも古典をやってもらうしかない。

「どの辺が難しいのかな、やっぱり古語?それとも、文法かな。」

私の言葉にさらに愁眉を深くした彼を、私はおろおろといろんな手ぶり身振りをもって落ちつかせんとする。最近の子供はよくわからない、だけに、どこでキレるかわかったものではない。慎重に接しなければ食い扶持を無くしてしまう。この子を受け持って半年にもなるのに、まともにこの子のことを理解もできないまま、ただひたすらご機嫌取りのようなことをしている私は、きっと女房失格なのだろう。

「全部っスわ、全部。やってられへん。意味わからんっちゅーねん。ようこんなん大学でやってはりますね、何が楽しいんスか。」

 苛立っているような、その表情ですらなまめかしい。それはともかく、古典が苦手でもこんなふうに投げ出すことはなかった彼が、珍しく筆を置いたということは、もしかしたら何か疲れているのかもしれない。確か彼はテニス部で、2年でレギュラーを勝ち取って、その全国大会後だ。色々無念もあったに違いない。勉強と同じで、1番以外は勝者にはなり得ないのだから。
 私には似ても似つかぬ彼が、少しだけまたかつての自分と重なって見えた。負けも妥協も、経験した限りその自分をその後ありありと思い知らされる瞬間は、これから何度だって存在し得る。

「えっと…そうだな、文法と単語を覚えて当てはめていくだけだから、簡単だったんだ。できるから好きだっただけ、好きだからできたんじゃないんだよ。大学も、この学部がよくて入ったんじゃないんだ。入試科目の配点が、入りやすい配点だっただけ。」

 私が自嘲気味に言うと、若君は面食らったように口を真一文字に結んでいる。

「だから光くんみたいに、好きなことだからできるようになれるってのが羨ましいな。この前言ってたよね、洋楽好きだから英語好きって。」
 
 そう、彼に対する気持ちの全ては、羨望だ。綺麗なかたちも、若い衝動も、無限の未来も、全部全部羨ましくて仕方がない。押し黙った彼と私の間に沈黙が流れる。心地の良い筆の音は鳴りやんで、ただ音のない空間に冷えた二人が集っている。聡い彼は、私がいかにつまらない人間かわかっただろう。飄々として見せて居たい彼の内側は、きっと願望や衝動に溢れていて、静かに自分の好きをしたためていて、だから、私とは似ても似つかぬ、似て非なるものだ。
 
「つまらない話しちゃってごめんね。この『扇の的』、私の実家の話なんだよ、香川の。最初読んだときはへーって思った。」

 彼は手遅れに平然を装った私を見て、溜め息をついた。目を合わせることはなく、お互い、閉じられたノートの表紙を見ている。神経質な文字が並ぶ青い大学ノートの表紙を見る。何十冊のノートを使い切っただろう過去の自分が、表紙にまで浮かぶ。

「……センセは出身東京やなかったですか。標準語やし。」

 光くんは背中を一層深く背もたれに預け、後頭部の後ろで手を組んだ。今日はもういい、余計なことを思い出しすぎた。給料が発生している手前申し訳ないが、彼も私も、きっと疲れすぎている。日々に、現実に、得も言われぬ何かに。

「出身は香川で、親の転勤で中学から東京。関西に戻ったのは大学からだよ。」
「関東におらはったのに、コッチの大学に来たかったんスか?珍しいですね。」
「……ううん。実はね、都落ち。東京の大学に落ちちゃったんだ。別に今はもう気にしてないんだけどね。」
「……そーですか。」

 淡白な彼の返事は、共感ということも、同情ということもない声音で、ちょうどさっきまでのシャーペンの音に似て、心地よい。正直に話すことが、彼にとって毒なんじゃないかということくらい、私にだってわかる。6畳間の部屋が、無限に広がって感じる。光くんを見ていると、希望に満ち満ちた頃の自分を、勝負に負けた自分を思い出して、羨ましくて、妬ましい。
 
「……俺は、よかったスけど。」
「ん?」

「俺は、さんが落ちてよかった言うてるんです。さんが東京の大学落ちてくれへんかったら、俺はさんに会われへんかったし。」

 ふてくされたような声を聞いて顔を上げると、彼は依然として顔色も変えないまま、ノートの表紙を眺めていた。薄い唇から紡がれた言葉が嘘のように、眉一つ動かす様子はない。

さん初めて会うたときのこと覚えてますか。古典の話になったらえらい楽しそうに一人で喋り腐って、変な女やと思たんですわ。
 でも、『高校入ったら源氏物語いう話習うやろから楽しみにしとき』て言うて。『光くんと同じ名前の人が主人公やで』『えらい美男子言うて、光くんと同じやね』て、えらい楽しそうやったから。……やから、ちょっとくらいやったってもええかなと思たんや。嫌いやけど。」

頭の後ろに隠していた手は、いつのまにか机の上に戻って、長い指がノートに落としていたシャーペンの柄を撫でている。身長はそう変わらないけれど、ペンだこと肉刺のある手は私より一回り大きそうだった。ラケットとペンをもう何時間も握っているであろうその手は、彼のひたむきさを物語っているようだった。

「ふてくされたようなこと言うて、すいませんでした。言い訳さしてもーたら、まあ全国終わったばっかやったんで。……勝ってたら、こんなこともなかったんやろけど。」

 依然として顔色は変わらず、反省の色は、正直伺えない。けれども、彼の言葉は一つたりとも矛盾をはらんでいる様子もなく、ただ淡々として一定の声音だけが、いつもの本当を物語っているような気がした。

「……ごめんね。私も、就活始まってるからって、ホラ、学歴とか気にしちゃって。研究、楽しくなくなっちゃってて。」

 ふーん、と、腑に落ちたように息をついた。
 私たちは、少し疲れているみたいだ。日々に、現実に、得も言われぬ何かに。ただ、そのすべてを理解し合うことはなくてもいい。過去を後悔するようなことがあっても、努力を投げ出したくなるほど誰かを羨むことがあっても、今ここでなければならない理由がきっと存在する。

「ごめんね!辛気臭くなっちゃった。ありがとう、光くん。先生冥利に尽きるようなことまで言ってもらって、自信になるよ。」

 こういうとき、辛酸を交換して息を吐くようなことが、こんなにも自分を助けるとは思わなかった。息を吐かずに勉強ばかりしてきて、そんなこともわからなくて、中学生に教えられてしまった。この子が大人なのか、私が子供なのか、わからないけれどこういうのに年齢は関係ないんだろうか。彼の手に負けないくらい、そう思うと背筋が伸びた。

「センセは、俺より身長高いですよね。」
「? うん、多分、ちょっとだけ。」
「すぐ追い抜きます。……古典はまぁ、そのうち。」

 そう言ってノートを開く彼の横顔は相変わらず光る君のような美しさで、ただ少しだけ、緋衣に染まっているように見えた。

色は匂わず
180104