そんなに時間のかかることではなかった。愛を知らない子供だった人間が、突然現れた異性に好意を抱くのに理由はない。しかしながら、この女は自らの下った上司の女だ。手を出せばあの男を敵に回すことになる。それだけは御免被りたい。別に命を取られたりはしないだろうが、俺も一応静かに生きていきたいたちなのだ。
にしてもこんな女が、俺の教育係とはどういう意図があってのことなのだろうか。あの男の腹の底は読めない。読みたくもない。少し前まで、この女自分と同じような目をしていた。この世の地獄を全て見てきたような目をしていたのに、最近ではめっきりそんなこともない。牙が抜けたような、今にも死んでしまいそうなやわな女に成り下がって、俺はひどく動揺させられたのを覚えている。ある意味それが、自らの気の迷いの一番の原因だったのかもしれない。吊り橋効果だ。変な勘違いを、頭が起こしてしまったのだろう。
「リヴァイ、ちょっと出てきてもいい?」
自室から出ようとドアに手をかける女の扇情的な背中を、大仰なテーブルを前にした椅子に腰掛けて眺めていた。エルヴィンのところに行くのであろう綻んだ横顔に苛々が募る。一丁前の嫉妬心ばかり肥大していくのは、不可抗力だ。この女のあの全ての地獄を知った目が好きだったのに、今更そんな、ただの女になれるはずもないだろう、お前なんかが。
「駄目だ。」
犯行じみた俺の言葉に唇を尖らせて拗ねるは、こう見れば本当にただの女だ。エルヴィンが目をかけているということ以外なら。あの男がひと床にとどまるわけがない。引く手も数多、来るもの拒まずの男が、こんなに一人に執着するはずがない。はずだったのに、今では無様に入れ込んで、気高い団長ともあろう者が。
「リヴァイちゃんは子供だからお姉さんの添い寝がないと眠れないんだねー」
嫌味な冗談を宣うは、後輩からの独占欲を受けてか満更でもなさそうに笑っていた。後輩?冗談じゃない。そんな立場に満足できるほどならば最初から諦めがついている。自室のソファーに寝転がり、暇そうに午後を謳歌する女の頭には、きっと俺以外の男が描かれているのだろうと思われて、酷く憤慨させる。
「そう言うからには、俺と寝るんだろ?」
苛立ち混じりに勢いでそんなことを言った。席を立ち、ソファーで寝ている女の上に跨ると、驚いた表情でこちらを見るはいなかった。ただ、わかりきっていたことのように俺の顔を眺めて、抵抗もせず頭の後ろで手を組んでいた。そのまま眠りこけそうなほど落ち着いた様子でこっちを見ている。
「お子様と寝るほど暇じゃあないな。」
俺の気持ちなどお見通しかのように、俺の髪を撫でる手は柔く温かかった。そういうところがムカつくんだ。子供扱いなどしてくれないくせに、逃げるときにはその言葉を使う、身勝手な大人を演じるところ。エルヴィンにそっくりで虫唾が走る。襟首を掴んで上体を持ち上げても、顔色一つ変えないのは女としては上出来の根性だった。そのクールで飄々としたところが、どうしようもなく好きで、どうしようもなく嫌いだ。その澄んでしまった眼でさえ、俺のものでないと気がすまない。
「お子様になら襲われても文句は言えねーよな。」
自制の効かない子供を舐めるな、そう言いたかった。聞こえないのなら殴ってやってもいい。エルヴィンならばその程度で怒りはしない。俺は箍が外れた獣のように、そのまま組み敷いたの胸に顔を埋めた。人間とは愚かなものだ。どうしようもなくお子様な俺には、きっと何もわからないし、わかりたくもないし、わかりえない。何が悪いって言うんだ。
「文句なんか言わないよ。ただ、愛せなくなるだけで。」
は俺の頭を抱きしめて深く呼吸をした。耳元に響く心臓の音が、妙に落ち着くのに気がついた。俺は子どもがえりでもしてしまったのだろうか。母親の胎動が恋しくなるように、このぬくもりに溺れて堕落してしまいたくなった。そして、愛されなくなるのが怖くなった。無条件でこんなにも愛をくれる相手を、裏切れなくなってしまった。顔を上げての眼を見ると、俺と同じ眼はしていなかった。ただ、涙の膜が張ったその小奇麗な眼が、俺だけのものでないことに憤慨した。怒りのあまり涙でも出そうだった。普通の女だ。そうさせてしまった男も心底恨んでいる。なのにどうしてこんなにも俺は魅了されているのだろう。どうしてこんなにも、俺はお前でないといけないんだ。の胸に拳を立て、俺は涙を堪えた。
「どうしてお前じゃないとダメなんだ。どうして、俺のものじゃないんだ。」
一瞬驚いたような眼をしたは、すぐにまた俺の頭を撫でて、言うのだった。
「そう言って、泣いてくれるリヴァイが一番好きだよ。」
悪魔みたいな一言だった。その一言で、俺はもうここから踏み出せなくなってしまった。その眼が俺のものでないことに、死ぬまで納得せざるをえないと言うのだ。ひどい冗談だと思った。できるならこの先ももう二度と、その眼を見ていたくなかった。


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