大学生というのは、暇な職業だと思う。勉強もそこそこに、部活やバイトに精を出す人間もいれば、毎晩のように飲み歩き、合コンを楽しむ輩もいる。そんな人たちも、私から見れば一様にして輝いて見える。きっと彼らは生きているのだろう。かくいう私はどうかというと、多分もう私を構成する全細胞の半分以上は死んでしまって、もう生き返らないんじゃないかと思う。一人ぼっちは平気だ。昔からそうだ。それでも、死んだ細胞を憂うくらいの悲しみくらいは残っていて、多分数少ない生きている細胞が、生への未練を嘆いているのだろう。なぜ私の半分が死んでしまったのかは、多分明瞭なんだけど。
「いらっしゃいませー。」
 カウンターに立って客が店内に入るのを抑揚のない声で歓迎する。客が必死に悩んでいるパン選びに、心の中では(どれもおんなじ味だっての)と毒を吐く。客の選び終わったパンを袋に詰め、心のこもらないありがとうで客を追い払う。毎日、同じことの繰り返し。廃棄のパンを明日の朝ごはんにするためだけの夕勤。特に、お金に困っているわけではないから、する必要もないんだけど。
 大学生というのは、暇な職業だと思う。「いらっしゃいませー。」今、店内に入ってきた彼も大学生だろうか。大学生というには少し幼い横顔。綺麗な顔で真剣にパンを選んでいる。高校生かもしれない。そんなの私には全く関係のないことだが、たかが一人の客にそこまで思いを巡らせたのは、別に彼の容姿がよいとかそういうことではなかった。少しだけ自分と同じものを感じたから、そんな気がした。
「これ、お願いしますー。」「ありがとうございます。」
さまざまな種類のパンが並んだトレイをカウンターに置いた彼に目を合わせず儀礼的な礼を返す。間延びした声。私は一瞬だけ腕時計に目をやった。あと15分で帰れるんだ。
「今日はおばさんじゃないんだね。」
「えっ」
不意に声をかけられて、驚いてトングで掴んでいたパンをトレイに落とした。咄嗟に「すみません、取り替えます」と謝ってカウンターを離れようとすると、「いいよ」と笑われた。
「急に話しかけちゃったから、ごめんね。」
彼が謝る義理はなかった。完全に私が上の空だったせいだ。気難しい人なら烈火の如く怒るところだろう。機械的に作業をこなしているつもりで、機械にもなりきれない自分を恥じるばかりだった。
「いえ、すみません。私のミスです。集中が欠けていました。申し訳ありません。」
 私が必死で謝ると、彼は吹き出してくすくすと小さく笑いだした。私はその行動原理が不思議で、顔をあげて彼の表情を見た。
「店員さん、すっごく真面目だね。なにかの機械みたいに謝るんだから。」
機械、と言われて少しギクリとした。私が機械的に、適当に接客していたのがバレたのだろうか。私は緊張から体の四肢までこわばって、そのまま二の句が継げないでいた。
「いつもの店員さんと違うね、って言おうとしたんだ。いつも昼間に買いに来るときは、君じゃない別の人が店員さんやってるでしょ。」
かろうじて手を動かし、パンを袋に入れる。彼は構わず続けた。
「お姉さん、あんま気にしないでね。適当でいいんだよ、こんなの。」
 レジ袋に入れたパンを颯爽とかっさらって自動ドアをこじ開けるように出ていった彼の後ろ姿には、生き生きとした生命が生み出されそうな力があった。「適当でいい」何を偉そうに、そう思ったはずなのに、いつもみたいな質の悪いクレーマーが現れたときの不貞腐れた自分とは違う、全く別人が見え隠れしていた。

 次の日、生憎の土砂降りの中、私はお気に入りの傘が泥雨で汚れていくのを雨音で感じながら、雨水を吸ってつま先からだんだんと重くなる足取りのまま、バイトまでの道のりを急いだ。季節はずれの夕立ち、うららかな春のこととは思えぬ手ひどい仕打ち。世界は誰にも優しくないのだと思う。また一つ細胞が死にかけている。店の入口脇で、雨ざらしにされた可哀想な傘を振るう。一つため息をつくと、細胞が死んだ気がした。
 ばしゃばしゃ、とけたたましく雨を踏みしめて誰かが店先に走り込んだ。誰だろう、顔を上げると、まさか、彼ではないか。
「やあ。この時間に来ると、君に会えるんだね。」
傘も刺さずに頭も肩もびしょ濡れにした彼は、昨日と同じく、何が楽しいのかわからないが笑っていた。こんな雨に降られて、何が面白いのか。不快そうな顔ひとつ見せないのが不思議でならない。彼には喜怒哀楽の感情が働いていないのかもしれない。
「…いらっしゃいませ。」
小さな声でつぶやくと、昨日のように彼は一人で喋り始めた。
「ここのバイトってさ、つらいの?」
「え」
彼が、水の滴る髪の毛をかきあげた。聞き返したが、こちらを見ている風にはなかった。パンを選んでいる横顔と何ら変わらない昨日と同じ薄ら笑み。昨日と変わらず、綺麗な顔をしていると思った。私が沈黙していると、質問の意図がわからないのを察したようで、一人「あぁ」と納得したような顔でこちらを見たので、目をそらしてみせた。
「いつもつらそうな顔じゃない?昨日も、今日も。」
二日ばかりしか会っていないのに、いつも、とはどういうことか。つらいなどと、なにをわかったふうに。  言いたい言葉が喉元まで不意に出かかって、やめた。彼の屈託ない表情のこめかみに、一滴の天雫が伝った。彼のこめかみから目をそらして、目を伏せて呟く。
「別に…。」
 別にこの仕事がつらいのではない。なにか悩みがあるわけでもない。だからといって、彼のようにいつも笑っていなければいけないわけでもないだろうに。無愛想なのは、ただ面倒なだけだ。放っておいて、わかったことを言うのはやめてほしい。
「そうなんだ。じゃあ、ちゃんと生きてるんだね。」
咄嗟にどういう意味、とか、聞き返しそうになったが、そのとき顔を上げた際に、今まで屈託のない笑顔を見せていた彼の顔が一瞬だけ曇ったのを私の目ざとい眼球がくり抜いた。彼は、携帯を一瞬だけ揺れたボトムスのポケットから取り出して画面を確認し、「あぁ、パン買う時間なくなっちゃったな。荒北さん、勝手なんだから。」と、独り言ちた。雨降りの中また飛び出していこうとする彼が「じゃあね」と一言残していこうとするので、私は思わず彼の腕を掴んだ。
「傘、使ってください。」
私のビニール傘を彼に突き出した。彼は、「いいの」とも聞かず、「ありがとう。」と、一言残して私に傘を突き返して、土砂降りの中、灰色の空と、鼠色のアスファルトの間を器用に、泥まみれで走っていった。

 勝手な人だ。そう思った。変な言葉だけ残して、その言葉の意味を聞く機会を、感謝の言葉で突き返されてしまった。

 勝手な人だ。

alived

150425 続きます