気がついたら、毎日をどこかで走り回っているような奴だから、俺はいつもあいつが転ぶ前に杖を差し出そうとしていたんだが、そしてその杖をあいつは蹴り折ってくるような奴だった。そんな突拍子もないお前だからこそ。
 ネアポリスの街は、麻薬が一掃されてからというもの――麻薬があった頃もまあ、そうではあったのだが――文化という文化が花開いていた。音楽、絵画、彫刻、建築。沢山の芸術家やその卵で溢れ、下町・ローマとも言うべき雰囲気さえ漂っている気がする。勿論、自称芸術家だって沢山居たもんだが、そんな奴らだって、街を賑わわせる花の一つなのだ。俺らギャングも、随分と丸くなった。ジョルノがボスになってからは、パッショーネも落ち着いたものだ。少しずつなまくらになっていくような自分を意識しながらも、俺はこの穏やかな日々を愛していた。往来で薬中に出会わずにパニーニの買い食いができる、幸せなことだ。アジア系をターゲットにしたたちの悪いぼったくりとスリは相変わらず減らないが。
 アジトのドアを開けて街に出ると、眩しいほどの太陽が俺に降り注いだ。どうやら太陽は俺を焼き殺す気みたいだ。悪くない。雲なんて無粋なもんがない一体一の勝負だ。こんな暑さには負けていられないな。仕事は仕事、今日もどこぞの馬鹿をブッ飛ばしににいくかァ。
 そう意気込んで一歩を踏み出したとき、俺の目の前を台風が駆け抜けた。…かと思った。ものすごい全速力で背の高い女が、別の男を追いかけていくのが見えた。俺から5m先あたりでその女は男の服の襟を掴み、そのまま蛍光グリーンのスニーカーで飛び蹴りを食らわせ、男を地面に沈めた。
「ヒトからモノ盗むたぁどういう了見してんだテメー!アタシが日本人だからってナメやがってよォ!カモにすんのは観光客ぐれーにしとけ!ボケがッ!」
その女は、声さえ変えれば女には絶対に聞こえない酷い言葉遣いで、眼前にいるのであろう男の…その…タマを…全力で何度も踏みつけている。同じ男として、そんな哀れなスリの犯人の瀕死の状態を見て、下半身が一気に冷え込んだ。地面に沈んだ時点で意識は途絶えてるだろうに…女は容赦する様子もなく、怒りのままに気を失ったその男のアイデンティティーを踏みつけている。
「大体テメーアタシのギターにケチつけやがったな!お前の腎臓も肝臓も心臓もキンタマも全部売ったぐれーでアタシがテメーを許すと思うなよ!クソヤローがッ!!クソックソッ!!」
スリの男はもはや白目をむき、もう天国から迎えが来ているのかもしれないと思えるほど酷い扱われようだった。周りの奴は苦い顔をしながら、女の顔と男の顔を交互に見て通り過ぎていく。確かにあの男が全面的に悪いのだが、女も女であんなひでぇ顔があったもんか。どんな女もキレてるときはあんな顔になんのか。ブスだとかそういうのではない。怖い。ありゃあ人間じゃあねえ。にしてもこの怒り方、誰かを彷彿としてイカンな。俺は男の哀れさと、女の形相に、通り過ぎる一歩を踏み出せずにいた。
 やれやれ、そう思いながら女に歩み寄り、声をかける。
「…ねーさん、もうそこまでにしとこうぜェ。」
「アァ!?」
こっちに向けられた顔は、「ひっ」と声をあげてしまいそうなほど恐ろしい。どこの世紀末覇者だ、一体。俺はビビりながらも、男への同情を言葉にしていく。周りの通行人どもは俺のことを勇者だとでも思っているかもしれない。おう、これで俺が死んだら、そこの通りにいいブロンズ像でも立てておいてくれ。
「もうそいつも反省してるみてーだしよォ、つーか…もう十分っつーか…。」
「十分?何が十分だってンだよテメーッ!テメーもアタシのギターを虚仮にすんのかよォ!チクショーッ!」
女は俺の首根っこを掴んだ。おいおい、今度は俺かよ。金玉を潰されるのだけは勘弁だぜ、俺もまだまだ現役だからな。俺は女の形相を目の前にしながら、さながら降伏したように両手をあげる。
「虚仮になんかしやしねえよ。」
「お前だって虚仮に…え?」
女の手が緩んだ。さっきと顔が違う。女の表情筋が緩んだだけなのだろうが、別人みてえに綺麗に見える。アジア人は俺たちには見慣れないが、随分綺麗だ。
「…ギター弾くのかよ、いいじゃあねえか。俺にも聴かせてくれよ。スリなんかする男には金が一番で音なんか分かりゃあしねえさ。仕方ねえって思っておきな。それよりもアンタは、早くこの男から金ェ取り返してよォ、俺に聴かせてくれよ、そのギター。」
「……。」
女はパッと俺の首根っこから手を離し、地べたに横たわる男の顔を一度踏みつけてから、男のポケットからしわくちゃの封筒を取り出した。中には、いくらかの金が透けて見えた。
「…こいつ、アタシから金を盗もうとしたのよ。さっき、広場で歌ってたときに入れてもらったチップをね。」
落ち着きを取り戻した女の声は、空間を凛と通る女の低い声だった。長い黒髪は艶めいて、横顔はミロのヴィーナス像みたいに綺麗だ。あれだけで均整の魔を誇るヴィーナスは、失った両手でギターをかき鳴らしていたのか。その腕を虚仮にされた上、自分のギターを認めてもらって投げてもらったチップを盗むだなんて、そりゃあ、温厚と呼ばれる日本人でもキレちまうってモンか。
「こいつぁ俺が、懲りて二度と手癖の悪いことできねーよーにしといてやるから、な。あんたは、そのキレーな手を変な首根っこ掴んだりするために使わないで、ギター弾くためにだけ使ってくれよ。」
ヴィーナスは、初めてへらりと、俺に向けて笑った。封筒を抱きしめて、「ありがと」と呟いて。
俺は、ズバンと、何かが胸に突き刺さった気がした。青空に差した飛行機雲が、俺らを見下ろしていた。


女の名前は、。怒りっぽいところは母親似、そして兄似。年の離れた甥の父親はミュージシャンで、その影響もあって、音楽が好き。イタリアに来たのは、その甥の勧めだったらしい。怒りっぽいと言っても一つだけ、譲れないものに対して。彼女にとっては、それが音楽らしい。
女はエレキギターとアンプを繋ぎながら、そんなことをつらつらと俺に話した。俺は、へぇとかほぉとか言いながらの話を聞いていた。ゆったりしたTシャツに、タイトなジーンズ、そして蛍光グリーンのスニーカー。俺も着るものには拘っている方だが、この女はシンプルだがいい物を着ている。悪くない。そのスニーカーの色のチョイスなんか最高だぜ。心臓が飛び跳ねるような黄緑だ。
しゃがんで作業していたは立ち上がって、真っ赤なエレキギターを抱えた。試しに一回ストロークを落とすと、そのギターはわななく。近所迷惑にならないギリギリの音量にアンプを設定して、その広場はのライブステージに変わる。真昼間のステージ、燦々と降り注ぐ太陽の中で、真っ青な空の下、真っ赤なギターが揺れる。
「ミスタ、居眠りして聞かないでよ。ここで弾くの、すっごい緊張するんだからね。」
「寝てなんかいられっかよ。虚仮にしたら金玉潰されんだろ?」
にやりと挑発的に笑うは、また俺の心臓を射抜いたみたいだ。心臓を切り裂くような演奏がはじまる。


「青く燃えていく東京の日――」
の歌は、男を怒鳴っていたときとも違う。俺に礼を言ったときとも違う。腹の底から響くような、しかし繊細な声でギターの奏でる音の上を走っていた。ギターは、俺にはわかんねーが、そりゃあ魂揺さぶられる感じだ。かき鳴らす腕は、ヴィーナスなんかよりも美しいやら力強いやらで、ギター自身もそれに応えているかのようで。日本語は俺にはわかりゃしねぇが、それでも、伝わるものがここに、確かにあることが、俺にも感じられた。俺には音楽も日本も何も分かりはしない。それでも、確かにここには何かがある。ジャズやラテンなんかに聞きなれた俺には、何もかもが新鮮で、わけがわからないなりに、興奮していた。

4曲を演奏し終わったあたりで、ふと周りを見渡せば、広場の数十人がの歌声に足を止めていた。こりゃあすげえ。ここで演奏する人間には、いろんな声や、歌や、演奏技術を持った奴がいたもんだが、ここまで足を止めさせる奴は珍しい。曲調が珍しいのか、日本人が珍しいのか。
「これがジャポーネのロックって言うのよ。」
そう言って5曲目に入る。空は真っ青、誂え向き。こんなに心が躍る日は初めてだ。突拍子もねえあの出会いが、こんな痺れるような一日を産むとは思わなかった。



「おめー実はすごいやつ?日本では有名なアーティストなのか?」
「そんなわけないじゃない…。日本ではもっとチップは少なかったわ。ロックは、日本には溢れかえっているから…珍しくもない。」
あれだけ物珍しそうに見ていた数十人は、演奏が終わるとそれぞれに少ないチップを落として、何事もないように道を通り過ぎていった。あんなにも沢山の人間が見ていたというのに、チップにするとこんなに少ない。どうやら、大きな金を落とすのであろう頭の凝り固まった年寄りや、似非紳士には、この新鮮な音楽の鼓動はわからないらしい。アンプの片付けをするの横顔は、満足感に浸っているようでもあり、まだまだ足りない飢えを湛えた獣のようでもあった。
「なあ、もっと歌ってくれよ。」
「なあに、聴きすぎは毒よ、ミスタ。」
馬鹿、一度聴いただけでもう中毒だ。


群 青 日 和

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