日付が変わった。どうということはない、平日の話なのだけど、今日は珍しく日付が変わるまで起きていて、デジタル時計に0が四つ並ぶのを眺めて、一つため息をついてみたりした。10年前夢を抱いて入った高校のことを思い出したり、数年前に卒業した大学時代の友達のことを思い出したりしてみていると、あの時よりもう随分と、年月が経つスピードが速くなっている気がする。控えめに時折音を鳴らすスマートフォンのこうこうと輝く画面を撫でていた。SNSツールに並ぶもう何年も連絡をとらない友人たちの名前が並んでいる。その一番上に堂々と鎮座している名前に触れると、不愛想な短文のメッセージが並んでいる。なんとなく、女々しい自分を笑い飛ばして欲しくて、通話ボタンを押した。電話口になんて出なくていいのに、普段は同じく寝ているような時間に、その人は私に応えた。
「…何だ、珍しい。こんな夜中に叩き起こすくらいなんだからそれはもう盛大に面白い事件でも起きたんだろうな。」
いつもの不機嫌そうな声が耳元で響く。なんだか今日という日がなんの特別さも纏わないただのルーティンであることを思い出させてくれる。普段は嫌味たらしくて嫌になるけど、なかなかどうして今日は、それが少しでも心地よいのだろう。
「それが、そんなこと無くってすみません。ははー。」
誤魔化すように笑うと、電話口からのため息が耳を通り抜けた。
「…何もないのにこんな夜中まで起きてご大層なことだな。明日も仕事だろう。…あぁ、原稿は出来ていると言ったろ。明日取りに来るようにと答えたはずだが。」
「いえ、そういう原稿とか、そういう用事ではないんです。」
参った。勢いだけで電話してしまったから、怪しまれているし、鬱陶しがられている。まあ、当然なんだけど、仕事相手の先生様にプライベートな用件で電話して怒らせている私は、今一番この世で非常識な人間であると言って差し支えない。
「じゃあ一体何だ。いちいち君の戯言に夜分に付き合ってやる暇はないんだ。」
ええい、ままよ。言ってしまえ。どうせ深夜に電話を掛けた時点で、明日はクチをきいてくれないことは確実なのだ。
「…ああ、えっと、そうですよね。単刀直入に言うと、その、今日私の誕生日でして。」
「…………………。」
唖然とした様子の長い沈黙に、耐えかねた私は早口でまくし立てた。
「あーっと!すみません!いや本当に!当日に祝ってくれるような恋人も友達もいないしがない女の戯言です!すみませんでした夜中に!」
そんな私の反応に、耳元の毒舌マシーンはいつも通り長ったらしいご高説を垂れ始めた。
「…何だと思えば…。悪いけど、君の誕生日なんて知ったことじゃない。何を期待してこんな夜中に連絡してきたのかと思ったら自己申告で誕生日を祝ってもらおうなんて大人として恥ずかしくないのかい?誕生日なんて所詮君以外の人間にとっては平日なんだぜ。わかったら黙って寝るんだな。」
「あーっはいすみませんでした!ごめんなさい!おやすみなさい!」
「おいちょっと待て」
思い切り通話終了ボタンを押した。くっそうやっぱり電話するんじゃなかった。でも、なんとなく、あの毒舌で捲し立てられて、私の女々しさが一蹴されたような気がして、よかった。どうせ怒られるのだから、明日はもう開き直って図々しく仕事だけしに行こう。部屋の電気を消すと、真っ暗な部屋にただ先ほどまで先生様の声で喋っていた携帯だけが光っている。その光すら消すと、星の光を映すには明るすぎる黒い夜空を四角く切り取る8畳一間の窓枠が、揺れるカーテンの後ろでちらちらと見え隠れしていた。彼はいつも私の欲しい言葉をくれる。それは彼がわかりやすく単純明快な嫌味野郎であるからなのだろうけど、それはそれでいい。彼のおかげで私は今晴れやかな気持ちだ。両親からのメッセージだけに、短くお礼の返信をしたあと、私は目を閉じた。ゆるやかに視界の黒が脳を覆うのと同時に、私は先ほど耳元で必死にベラベラと持論を語っていた男の声を、なんとなく耳で反芻していた。

 夜が明けてからの私は、いつもに増してすっきりと目覚め、会社に出かけた。会社では「いくつになったんだ。結婚は大丈夫か?」などと揶揄される以外には、私の生まれた日などには、あいさつ程度に触れてこられる程度だった。これがまあ、おひとり様の誕生日というやつなのだろう。なんだかんだいって、今年は初めての彼氏のいない、ひとりぼっちの誕生日だったわけだが、社会人の誕生日といえばだいたいこんなものなのだろう。今までが恵まれていたのだろうなと思うと、過去に寂しさ故に何度も夏や、誕生日や、冬や、イベント前だけに一時的に恋人を作ったような経験を思い出して、不届きな自分を恥じた。ある種今の自分のほうがよっぽど正しい姿なのだろうと思うと、アラサーとなった自分にとって若くない分相応な誕生日だと納得した。
「あぁ、岸辺先生のとこ、原稿もう上がったって?」
 物思いにふけりながら次の会議用の資料をまとめていると、チーフが私の後ろから声をかけてきた。まだ昼間が慌ただしくないのは、〆切明け数日だからであるが、こんな時期に原稿が上がる人間はほかにはいない。
「あ、はい。露伴先生のとこには今日中に取りに行ってきます。」
「いいよなぁ、岸辺くんの担当なんて。〆切も絶対守るし、勝手にやらせとけば面白いマンガ描くわけだろ?楽なモンだよな。」
隣の席の中堅編集が私にそう言って聞かせる。こいつ、嫌味なだけで仕事ができない中途採用で、運よくヒット飛ばしてくれた作家に偶然当たっていただけのくせに、いつも偉そうな言葉を投げかけてくる。
「あ、もしかして原稿運びとは名ばかりで、売れっ子岸辺露伴の通い妻やってんでしょ?いいねえ、俺も漫画家先生になれたらちゃんみたいな子と…。」
「おいやめないか千堂、度が過ぎるぞ。」
「…いえ、大丈夫です。昼からは空いてるんで、今から行ってきますね。」
「すまないな、頼んだぞ。あと、誕生日だろ今日。おめでとう。これ、酒のアテにでも。」
「あ…はは、毎年覚えててくださってるのチーフだけですよ。ありがとうございます。」
そう言ってチーフは、手提げ袋をさりげなく渡してくれた。チーフの気遣いにはいつも救われる。千堂さんの嫌味やセクハラにも助け船を出してくれるし、チーフの存在は有り難いと思う。迷惑をかけてしまったけど、露伴先生はチーフのように支えてくれるわけではないけど、悩みを一蹴してくれるあたりは、すごく助かる。こうしていろんな人がいてこそ仕事が続けられてるんだなと自覚する。なんだか、誕生日に祝ってくれる人がいないわけでもないし、そんなことでいちいち腐っているのが馬鹿らしくなった。
「じゃ、行ってきます!」
 少しだけ声を張って、編集部を出た。露伴先生の嫌味も今日くらいは聞いてやろうっと。



 岸辺邸、兼仕事場のチャイムを鳴らすと、中から先生の足音が聞こえて、内側からドアが開かれた。
「早かったんだな。」
「はい、昼休みでしたけど、また編集部に戻って仕事があるんで、原稿取りに来ました。」
「…そうか。次週の件で話があるから上がっていけよ。」
「…?はい。」
珍しい。基本は最初から打ち合わせの予定が入っていない限り、玄関先で原稿を預かって終わりなのに。まあ打ち合わせと言っても、先生が一方的にとうとうと話す話を滝の水を浴びるように私が聞いて10分で帰るだけなんだけど。
 私は靴を揃えてそろそろと家に上がる。東京の便のいいところに建っているタワーマンションの一室ともなると、日当たりもいいし、それはそれは広い。普通は20歳そこらで住めるような場所じゃないはずなんだけど。先生って18の頃から一人暮らししてるって言ってたけど、本当にすごいよな。
「これ、原稿。」
「はい…って、2週分?」
「あぁ、来週はM県でちょっと用があるんでな。」
「そうなんですか。相変わらず納期早くて助かります。お預かりしますね。…ところでじゃあ、次週の話っていうのはそれですか?」
「…いや…。」
 先生が口ごもるなんて珍しい。というか、開口一番怒られると思っていたのに、なんだか今日は様子が変だ。そう思っていると、先生が「くそ、柄じゃないんだよなァ、こういうの。」と独り言ちてから、私に紙袋を手渡した。
「え?わ、何これ。ワインじゃないですか!それもいいやつ…。」
「君が図々しく自己申告してくるから仕方なく用意してやっただけで、僕は本来こういう面倒なことはやるようなタチじゃないんだ。多少は感謝しろよな。」
 先生が私の顔を見ずに言い放つ。先生の担当になってから、2年が経った。先生の横暴やら、やりたい放題や無茶振りに振り回されてきたことばかりだったけれど、こういった催しは今まで一度も無かった。私は意外な岸辺露伴の人間らしさに驚くと同時に、こみ上げてくる喜びに顔がほころんだ。
「嬉しいです!ありがとうございます。」
「…別に大したものじゃない。そういえば、それ何だよ。」
「あ、これですか?辻原チーフが編集部出てくるときにくれたんです。誕生日にって。」
「ふぅん。見せてみろよ。」
「え?」
そう言うと、露伴先生は問答無用で私の提げていた袋を取り上げて中を見た。
「酒のアテに…って言ってました。」
「なるほどね。気が利くじゃないか、あの中年。」
「はは、辻原さんまだ30代でしょ。」
 私が話していると、露伴先生は徐にチーフから貰ったそのプレゼントの包装を解き始めた。
「え、何ですか!?今から食べるんですか!?」
 慌てて聞くと、露伴先生は手元から目を離して、こっちをじっと見つめながら、当然のように言った。
「何言ってるんだ。プレゼントは君に渡したそんな安物じゃない。休暇だ。今日くらい休んでも罰は当たらないだろ。編集部には言ってある。」
 事も無げにそう宣う先生は、唖然とする私の手からワインを奪って手際よく封を開けた。編集長に電話をかけたんだとか、ワインは一本5万くらいの安物だとか、この調子だと辻原のやつは知っているんだろうなとか、ブツブツと一人で呟いているが、呆気にとられたまま私は棒立ちしていた。先生は、机の上にあったグラスを私に差し出した。
「情けない声の電話がかかってきたときは何なんだと思ったモンだが。まぁ、僕も偶然暇だったし、アラサーの寂しい仕事仲間が珍しくぐずぐず言ってるときぐらい、何かしてやってもいいだろ。いつも営業スマイルのつまらない君の、その豆鉄砲食らったみたいな顔が見られただけで今日は十分な収穫が得られたさ。」
 磨かれたグラスが、窓から差し込む青空を映して、太陽の光に瞬く。穏やかに笑う岸辺露伴の横顔は、いつもより逞しく見えた。
 生きていくことは、別に楽なことじゃない。就職して4年だけれど、何度も辞めたいと思った。仕事もプライベートも、毎日毎日が幸せ満載なわけでは、決してない。それでも、こうして気まぐれにサプライズなんてする変わり者に救われたり、支えてくれる人がいたりするんだから、まだあと少しくらいは、腐らずに続けていってみても、いいのかもしれない。
「なぁ編集。せいぜいこれからもサボらず勤めろよ。気長に世話になってやる。」
「…はい!」
 燃えるような赤いボディーのワインが、空のグラスを満たしていく。人生で最高の誕生日が、グラスが高鳴る音とともに幕を開ける。


Blessings

160808