東京は広い。その昔の私は、関東圏は大体東京だと思っていたくらい、東京とはさながら広大なひとつの国だと思っていた。関東はおろか、一人では東北を出たことすらない私にとって、この狭い狭い世界の、広い人の海の中で揉まれて歩くなどということは、大層な苦痛を伴った。慣れないかかとの高い靴に、靴擦れしてなお歩き続ける足は、もうずっと前からひどい痛み。窮屈なスーツは、いつだって私にまとわりついて離れず、私の背中を押すことはない。
 そんな思いをして出かけて行った先では、私の学生生活や、未来の社会人生活に対するビジョンを否定に否定を繰り返す人の群れに出くわす。B4の紙切れと値踏みされる私の人生は、いったい誰のものなんだろう。私はこの場所で何がしたくて、誰のためにここにいるんだろう。私の脚は、そう思ったとき突然に、動かなくなった。この場所にはたくさんのものがあって、収まりきらずに飽和して、もうずっと溢れかえっているくせに、選考に向かおうとする私の背中を押してくれる人は、ものは、どこにもなかった。
駅の構内で立ち尽くした私は、そのまま逃げるように東北行きの夜行バスチケットを買った。



つい先日読んだ、小学校の頃に書いた文集の、未来の自分へのメッセージは、今の私を苦しめるために書かれたものではない筈だった。
私は、12歳の私に、謝らなくてはならない。



 杜王町に着くと、懐かしい景色が朝焼けに照らされ、別人のような顔をしていた。降り立ったバス停には、およそ夏とは思えないような、肌寒い風が吹き抜けた。4列のシートに縮こまって眠った私の身体は、スーツを着ているときよりもさらに、壊れかけの人形のように軋んでいた。家に向かって歩こうとすると、私の方に向かって歩いてきた男がいた。バスに乗る前に電話した、幼馴染だった。

「偶然だな。君にこんなところで会うとは予想だにしなかった。」
「…迎えに来てなんて頼んでない。」
「僕だって頼まれた覚えはないし、そもそも僕は朝の散歩がてら通りがかっただけだ。」
「…そっか。」
「…そうだ。」
 偶然に通りかかった幼馴染様は、キャリーバックに入った荷物を黙って私から奪った。

「歩けるか?」

 私は黙って頷くと、町を起こさないように静かに歩き始めた露伴の後ろをついて歩き始めた。薄く赤紫に照らされた道を辿って、暮らし慣れたはずの街並みを見て歩く。たった数日間離れていただけなのに、この町はもう他人のようだ。向かいのクリーニング屋も、コンビニも、なんだか遠い遠い異国の国のもののように感じる。人っ子一人いないこの町の、シャッターを締め切った朝の風景は、私のことを突き放すように綺麗だった。

「どうせ、おじさんとおばさんには言わないで帰ってきたんだろ。」
「うん。」
「心配性だからな、二人とも。」

 露伴の声は、心なしか朝焼けと同じような色をしていた。画用紙に滲んだような水彩絵の具の、まじりあった赤と青が、そろそろ青に変わる。他には何も聞かない幼馴染の背中に、幼い私は感謝をしていいのか、泣いていいのか、わからないまま彼が歩いた足跡を同じように重ねるしかできなかった。ありがとうも、ごめんねも、言えない私は、ただ声を押し殺して、また今日が巡ってくる町に背を向けて歩いていた。



 露伴は、私を私の家に送り届けることなく、自分の家に着いた。私の荷物を玄関に運び込んでから、遅れて着いてきた私を急かすこともなく玄関前で待っていた。私が目の前に来るなり、露伴はらしくなく右手を軽く上げて見せる。

「やあ、通りがかりかい。茶ぐらい出すから、寄って行けよ。」
「その小芝居、いるの?」
「わかってないな君は。こういうのって、リアリティーが大事なんだぜ。」

私が少し笑うと、露伴はドアを恭しく開けてくれた。普段の露伴なら、遊びに来た私を一度この玄関で追い返すよう振る舞って、仕方なく開けてくれる。今目の前にいる露伴と、いつもの露伴は、本当に同じ人で、ただ少し、いつもより私に甘い。

「どうせ、まともに寝てないんだろ?僕のベッドを使えばいい。僕は仕事してるから。」
 露伴はいつもの作業机の前に座ってそう言ったが、私はそんな露伴を後目に、私の足にまとわりついていた靴を取り払って、ジャケットを脱いで、ソファーに寝転がった。
「ここでいい。」
 そう言うと、露伴はため息をついて、寝室から薄い掛布団を持ってきて、私に手渡した。その布団に埋もれると、かすかに懐かしいような香りがした。きっと、露伴がまだ家族とこの町に住んでいたときに、露伴の家に泊まったときのあの布団とおんなじ匂いだ。作業机の前の椅子が軋む音がして、ほどなくペンが紙の上を走る音がし始めた。私はこうして、漫画を描いている露伴の横で、そのGペンや丸ペンが自由に原稿の上を走り回る音を聞きながら、このソファーで本を読んで、うとうとと眠りについて、夜遅くなる前に帰ったり、ご飯を作って食べたり、そういった時間を過ごすことが多かった。そのときと同じ時間が、今ここで数秒違わず流れている。手放しつつある意識の横で、世界を描く露伴のペンだけが、縦横無尽に駆け回っていた。





「起きたのか。」

 寝ぼけた頭で、目をこすりながら上半身を起こすと、キッチンで露伴がお湯を沸かしているようだった。露伴は、「紅茶でよかったんだろ。」とほとんど独り言のように私に伺った。
どれくらい眠っていたんだろう。こんなにぐっすりと楽に眠れたのはいつぶりだろう。ぼんやりと考えていると、キッチンから紅茶の葉の香りが漂ってきた。不思議なほど静かな部屋の中で、窓枠が青い空を切り取って私に昼を知らせていた。高い位置にあるのであろう太陽の光に、照らされた木々や建物は、私が幼い頃から見てきた、この町を写した窓枠の絵画と同じように鮮やかで、少し眩しかった。
湯気がゆらゆらと立ち上る紅茶のカップを露伴がソファーの目の前のテーブルに音もなく置く。ミルクと砂糖が横に添えられていて、私の好みを当然のように把握している露伴は、やはり頼もしくて、当然のように私のことを知っている、私の幼馴染様だった。ミルクと砂糖を溶かした赤く透明な液体が濁っていくのをぼんやりと眺める。露伴は、私の目の前のソファーに座って、そのままその紅茶を飲んだ。
今日の露伴は私に甘い。いつもそうだ。私が親に、先生に怒られたとき。友達と喧嘩したとき。受験に失敗したとき。普段傍若無人にふるまっているくせに、私が悲しいときは、いつだって黙って何も聞かずに、近くにいてくれる。強い露伴には、私は何にも返してあげられないのに。
 手指を温めるようにして、両手でカップを包み込んだ。じわりと滲むように指が熱くなる。エアコンのきいた部屋の中、先ほどまで熱かった液体は、もうすでに少しだけぬるくなっているようだった。一口だけ飲んで、舌をあたためたあと、私の口は一言一言を不器用に紡ぎ始める。

「うまくいってないんだ。東京で。」
「そうか。」
「面接とか、結構言われるんだ。書類審査で落とすところもあるしさ。あなたは今まで何をしてきたんですかって。」
「…。」
「何でこんなことしてるのかわからなくなっちゃった。」
「…そうか。」
「書類と、画面と、いろんなものとにらめっこして、毎日毎日出かけていくんだけど、私、何のためにこんなことしてるんだろうって。生きてきたこと、やってきたこと、全部全部否定されてるように思う。」
「…あぁ。」
「あそこにはあんなに人がいるのに、ひとりぼっちなんだ。同じようにして戦ってる人がいるっていうのが、想像もつかないくらい。」
「……。」
「私は、何をすればよかったんだろうね。私は、…私のことを、誰にも誇れなくなっちゃった。」
「…そうだな。」

 濁った紅茶は、私の顔を写さない。ただ、ゆらゆらと動くクリーム色の水面を見ていた。白いカップと濁って溶けて、手からすり抜けて落ちていきそうな色だ。手から滴るカップとミルクティーは、手のひらには二度と戻ってこない。手の中何にもなくなってしまったところまで想像して、露伴は少し空気を多めに吸った。

「正直僕は、君と違って好きなことしかできない人間だから、好きなことをずっとそれだけやってきたんだ。」
「うん。」
「だから、最初はわざわざ嫌いなことで金を稼ごうだなんて馬鹿のすることだと思っていたんだ。苦しいことを仕事にしなくても、楽なことや面倒じゃないことは世の中に沢山あるんだからな。」
「うん。」
「でも、君みたいな奴を見てると、そうでもないかなと思ってきた。」
「…そうなの。」
「あぁ。…最初は興味がなくて、面倒だと思ってたことも、渋々やるうちに楽しんでみせたり、嫌だったことを努力して克服して達成感を得たり。そういう人間って、僕が思ってるより多いんだと気づいた。」
「…。」
「うまくいくことばかりじゃない。楽なことばかり選んでいられない。理不尽だとか、納得いかないことも多い。そういった中で挫折することもある。君は僕のことを買いかぶっているけど、僕だって今のようなことが、生まれたときからできたわけじゃない。ペンだこを作って、腱鞘炎になって、漫画賞で落とされて。僕も君も、好きなことでだってそうでないことでだって、努力をして、悲しんで、それでも努力してることを、僕は知ってる。」
「…そうだね。」
「…だから、君がここで全部を辞めたって、僕は何も言わないさ。」
「…うん。」
「全部嫌になってやめても、時給970円で家政婦として雇ってやるよ。」
「それ本当に言ってる?」
「あぁ本気さ。僕は嘘は吐かない主義なんだ。」
「…そっか。」
「………君は、帰ってくる場所はあるんだ。だから、安心してまた頑張ってくればいい。」
「…うん、ありがとう。」
「君の能力や資質がどういったものか知ろうともしないで、正当に評価も下せない奴らに迎合する必要はないから、君らしくいられるところを選べばいい。どんなに立派な名前を冠していたって、君のことをこれっぽっちもわかってくれない場所は、君に向いていないのさ。」
「…そうだよね。」
「………君は僕のこと天才だの何だの言うけど、要領こそよくなくても、いろんなことに挑戦して努力できる君のこと、僕は羨ましかったんだぜ。」
「…聞いてない。」
「言ってないんだ、当たり前だろ。」
「…露伴は狡いよ。」
「狡いとはなんだ。」
「こういうときにしか、そういうこと言わないし。」
「こういうときに言うから効くんだろ。」
「そういうものかな。」
「そうさ。僕がいつも優しかったら、気持ち悪いだけだろう。」
「ふふ、言えてる。」
「…それはそれで癪だがな。」
「ありがとうね。ほんとに。」
「感謝される謂れはない。通りがかりの行き倒れを拾って説教垂れただけだしな。」
「…うん。じゃあ言わないでおく。ありがとうとか。」
「そうだな。」
「とっておくよ。私が全部、やり切るまで。全部終わったら、またここに来るから。」
「…ああ、気長に待つさ。それまでに僕も、君に誇れることを、せいぜい積み上げておく。」

 私の手の中には、ぬるくなった白いカップと、その中で波打つミルクティーが、変わらずあった。ここにあるものは、決して無くなることはない。手の中でそう柔く主張するカップの中身を、飲み干した。日が傾いて、窓から差し込むようになって、これからきっとそれはまた、橙色に変わる。赤色と檸檬色の境界を知らない私と露伴は、笑いあって、ご飯を食べて、昔話をした。赤い空がまた闇に消えて、藍色と星が夜を包むまで、くだらない話は続いた。こうした時間が、いつも、いつまでも、私を救ってきたんだ。

 そうして、朝来たときと同じバス停まで、二人で歩く。一歩一歩を、軽く踏み鳴らして歩く。見送っていく街並みは、朝とは別人のような表情だった。静まりかえった世界の中で、露伴は私の後ろを歩いていた。時折振り返ると、「君の荷物なんて盗んだりしない。」と笑ってくる。私を育てて、今もこうして、いつもと変わらず私を見送るこの町で、私は、皆と出会って、生きてきたんだ。私は、そのことを一つだって、私は後悔していない。

 バス停に着く頃には、折り目正しく5分前に到着したバスが、息を切らして今か今かと出発のときを待っていた。私は露伴から荷物を手渡され、大きな重い荷物をバスの下のトランクに詰めた。チケットを運転手に手渡して、バスに乗り込もうとしたとき、露伴が私に声をかけた。

「なあ、。」
「何?」
「君の、卒業アルバムに書いてたことだが。」
「…うん。」
「君のいい部分は、この町が、君のおじさんおばさんが、クラスメイトが、――僕が、知ってる。だから、もう自分のことを、たった数回、数十分会ったくらいの人間の言葉で、否定しなくていい。君は、君を誇るべきだ。僕が君を誇ってるのと同じくらい。」

 発車しますので席にお着き下さい、と、運転手が急かすようにドアを閉めた。私は、指定席に走り向かい、バスの窓を開けて叫ぶ。

「露伴、私、頑張るから!私、――――」

 動き出したバスのエンジン音にかき消されて、言葉は、きっと伝わらなかった。でも、それでもいい。私はゆっくりと窓を閉めて、私が見えなくなるまで見送っている露伴の姿を、目で追っていた。オレンジ色の街灯に照らされたバス停の下、無機質なバスの天井の下、私たちはただ大きな未来に揺られて、また同じ日常に戻っていく。たとえ、違う夢を追いかけていたとしても、私はこれからも、互いの未来で交錯する。その中で私は、小学校の頃に約束したように、私に誇れる私であり続けたい。
 暗い道をひた走るバスの中で、遠い遠い町へと向かう。私、笑顔で帰ってくるから。絶対、負けたりしないから。


夜行バス

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