窓際で一つ白い溜め息をついた。冬が景色から色を奪い始めた朝、窓からゆるやかに吹き込む風でさえ、部屋のすべてを凍り付けるようだ。後悔しそうなほどの冷たさが、指先から身体を冷やしていく。私がふと、窓を閉めようと気が付いたころには、携帯を握る手は、どっちが機械かわからなくなるほど、冷たく乾いていた。

私たちは大丈夫、そう言いながら空港で別れた。記者としてヘルサレムズ・ロットに行くと決めた当時、付き合って3年になる恋人がいた。たまに小さな諍いがあることはあっても、決して別れに繋がるような言葉を吐かなかった私たちが、たった一本の電話を介するだけで、たった少しの時差を介するだけで、互いがわからなくなってしまうとは思いもしなかった。
ごくごくよくある話だ。時間のずれは生活のずれに変わり、生活のずれはやがて心のずれに繋がる。嬉しいほどの忙しさとは裏腹に、自分の仕事の評価に対する焦燥が、彼の顔すらも見えない不安が、次第に苛立ちとなって降り積もる。電話口では口論ばかりになり、会う頻度は忙しさに反比例した。
昨晩深夜にかかってきた電話は、日が昇るまで続く大論争となったけれど、結局のところ何で言い争っていたのか今では見当もつかない。一緒にいた頃とは比べ物にならないくらいアウトドア派になったのねとか。この前のSNSの写真で隣に写っていた男は誰だとか。毎日毎晩連絡もなく出歩いて誰に会っているのだとか。仕事と言って本当はいつも男に会いに行っているんだろうとか。自家撞着の、堂々巡りを繰り返して、昇るのが早くなった朝日が開いた窓から差し込む頃に、彼は一方的に電話を切った。

窓際で携帯を握りしめて、腫らした目を窓から吹き込む風で冷やしてから鏡の前に立ち、化粧をいつも以上に厚くする。彼に対して流した涙のことなど、忘れてしまわなければ。目元にゆっくりと触れて確認すると、幾分見られる顔になったようだった。冷たい手が触れたその目尻、頬から、融解して消えてしまえたら、こんなにも悩むことはなかったのかもしれない。いつからこんなに弱くなってしまったのだろう。

いつも以上に丁寧にアイロンをかけた服を着て、いつも以上に丁寧にメイクを施したのに、始業まではまだ2時間もあった。こんなときは早く手を動かして仕事をしてしまいたいのに、今の私にはそれしか没頭できるものなどないのに、彼を忘れ去るまでの時間は長く、遠い。

氷のように足を突き刺すハイヒールに足を埋め、コンクリートジャングルを抜けて、社を通り過ぎて、職場近くのカフェに足を伸ばす。今日のこの街の危険度は、なんてしゃあしゃあと街中のラジオが語り掛ける。この時間はまだ人もまばらで、それでもこの辺りは女が早朝に出歩くにもそう危険ではない。右腕の甲の時計は、朝7時過ぎを指している。カフェのドアベルの音とともに、生ぬるい空気が私を出迎えてくれた。今朝も不愛想な店員のことを、気にしていられるほどの余裕もない。いつものカスタマイズでコーヒーを貰ったあと、窓際の席を選んだ。異形も、人も、この街の大通りを少しずつ、うつろな顔で流れてゆく。彼らもこれから仕事へ赴くのだろうか。ただただ一人ひとりを、追うともなく目で追っていれば、心が紛れる気がした。ここにいるのが今の自分にとって一番の幸せのような気がした。惨めだってなんだって、泣いてなどやらないのが強いひとのような気がした。

「そこのレディ、お暇なら相席でもどうかな。」

はたと気づいて、窓から顔を背け、声のした方を振り返ると、そこにはクラブサンドとコーヒーをそれぞれ片手にこちらへ顔を向ける仕事仲間の姿があった。
「スターフェイズさん。」
「やぁ、。久しぶりだね。君がこんなに朝型だなんて、知らなかったな。」
座っても?との意を込めて、カップを掴んでいる方の手の人差し指を椅子に向ける。「あ、すみません、どうぞ。」と、軽く席を立って座席の方へ手を向けると、「そんな畏まらなくていいよ」とテーブルに手元のものを置いてゆっくりと座る。長い脚を小さな丸テーブルの下にやっと納めてから、彼はコーヒーを一口すすった。
「先々週号の君の記事を読んだよ。これから記者一本で行く気なのかい?」
「まさか。あんな記事、何本書いてもお金になりませんよ。あれは趣味の範疇ですから。」
「ご謙遜を。まあでも僕らも君がこれからも居てくれないと困るからね。」
彼がクラブハウスサンドの封を開くと、弾力のありそうなブレッドの上で青々としたレタスや艶々と金色に光るチーズなんかが整列していた。かぶりつくのにうってつけ、手に余る大きさのそれに、彼は静かに口を寄せる。
「今日は早く目が覚めてしまってね。一昨日まで徹夜続きで昨日はさすがに早退したんだが…死んだように眠っても決まった時間で起きてしまうのは、もう若くない証拠なのかな。」
スターフェイズさんは、困ったように笑った。仕事ができる人というのは、往々にして一人で仕事をこなしてしまう。こなしてしまえるからこそ、その信頼が更に多くの仕事が繋がり、積み重なって降り積もってくる。彼が而立三十として、こんなにも落ち着いているのはやはりその生業によるところが大きいのだろう。
「…でも、若くない、なんてことないとは思いますよ。まだ30代でしょう。」
「もう32だよ。は25だったかな。僕らからしたらまだ希望に満ち満ちた年齢さ。」

今日のスターフェイズさんは、よく喋る。ああ言いながらも随分とよく眠れたのかもしれない。それでも、彼の話しぶりの落ち着きようは、私の凍え切ってあかぎれた心を少しずつ溶かして、解けさせていくようだった。コーヒーを口につけ、湯気の向こうで彼がはた、と思い出したように私に目を向ける。
は恋人いるんだったね。やっぱり30くらいまでには結婚してカリフォルニアに戻るのかい?」
恋人、その一言に、迂闊にも平然を装っていた表情が一瞬こわばったのが自分でもわかった。瞬間口ごもってしまったばかりに、適当な相槌を打つわけにもいかなくなった。なんたって相手は人心掌握に長けた彼だ。嘘を吐いたところでどうせそれは明るみの下で醜態をさらすようなものだし、きっと彼は大人の余裕で聞き流してくれると思えば、別に隠すようなことでもない。
「……そんな予定もあったかもしれないんですが、今ちょっと彼とうまくいってなくて。」
私がそう切り出すと、彼は「遠距離と言っていたかな」と確かめるように相槌を打ってくる。「そうです、その彼」と短く答え、私はさらに続ける。
「遠距離でも大丈夫だって思っていたんですけど、お互いがお互い、どんどん忙しくなって、電話する時間もどんどん無くなっちゃって……。気が付いたら毎日の電話が1日置き、2日置き…今では2週にいっぺんで、その電話も喧嘩ばっかで。」

彼はコーヒーを音もなく静かに嚥下しながら、私の表情を窺っているような素振りを見せる。くだらない痴話喧嘩だと思ってあきれているだろうか。
「どんなことで喧嘩するんだい。君が声を荒げているところなんて想像がつかないな。」
クラブハウスサンドを平らげた彼は、親指についたソースをひと舐めして、ナプキンで手を拭っている。その様子からは、何か特別私の言葉に感情を覚えているふうにはない。ただ、その長い指が丁寧にブレッドを包んでいた紙を折っていくのを眺めながら、私は続けた。
「くだらないことです。仕事が忙しいなんて嘘で、浮気してるんじゃないかとか。連絡すらできないなんておかしいとか、そんなことばっかりで。今朝も夜中から朝でそんな電話してて、それでこんな朝早くにここへ。」

苦笑いした私の言葉を聞くなり、プレートの上を整え終わった彼は、少し困ったような顔でひとつ溜め息をつく。テーブルの真ん中に鎮座したテーブルソルトの瓶の脇腹を撫でて、私の方に目をやらずにばつが悪そうに答えた。

「20代の男なんて皆そんなもんだからなぁ。エゴと自尊の塊なんだ。構ってほしいし、彼女には自分に夢中で居てもらいたい余裕のない生き物なんだよ。」
後頭部を掻いて、スターフェイズさんは苦い顔で言う。彼にしては落ち着きのないその動作に、そういえばこうした話を彼とするのは初めてだったようなことを思い出した。きまりが悪そうな表情で、私の方に視線を寄せた。辺りは依然、静かだ。彼の声は店内のぬるい空気の中でも多少の緊張感をもって私の耳まで届く。

「その彼ももう少し大人になれば、君のことを理解して待ったり君に尽くしたりする余裕ができるかもしれないけど……まあ今は難しい話かもな。」
スターフェイズのこういった一言を聞くたび、どうしようもなく私たちが子供であることを思い知らされるけれど、今日は格別彼が大人に見えた。そう思うと私の付き合っている奴は――私は、なんて子供なんだろうと覚えさせられて、ついため息が口をついて出た。そんな私の様子を見てか、スターフェイズさんは付け加える。

「勿論、うちの可愛い部下を傷つける男を擁護するつもりはないさ。今のは出版社の仕事もあるし、うちの仕事も掛け持ちでやってくれているから、ママっ子な男の世話なんてしている暇なんてないだろうに、災難だったな。」
俺はには幸せになってほしいからなぁ、と独り言のようにつぶやいたスティーブンさんに、うつむいていた私は顔を上げた。こちらに目を合わせない彼の表情は窺えなかったけれど、彼はどういう心境なのだろう。彼の思わぬ一言に、ふと自分の中の何かが揺らぐ。それは恋人に固執していた頑なな私の想いなのか、それとも、目の前のなんとも甘い上司への敬意か。とかく、今朝、泣きはらした目で出社しようとする自分の心中に渦巻いていた感情は今日の深い霧へ溶けて薄らいでいくような気がした。

「ありがとう、ございます。」
御礼の言葉を言い終わる前に、張り詰めていた気が緩んで安心を感じ取ったのか、右目から一筋の涙がこぼれていたのに気が付いた。みっともない場面を見せまいと慌ててバッグからハンカチを取り出そうとして、すぐには見つからないのを悟って手で拭おうとすると、私の頬を布越しのスティーブンさんのハンカチが覆った。香水か何かのような、ただ彼らしい香りが一瞬だけ鼻をかすめ、驚いている間に彼が口を開いた。

「君が泣いているのは初めて見た。」

慌ててハンカチに手を添えると、スターフェイズさんの手が頬から離れる。私が「すみません」と枯れた声で謝ると、彼は「いや」と一言さえぎるようにして、軽く笑う。
「初めて仕事仲間じゃないのことを知れた気がしたよ。役得ってヤツかな。」
彼は屈託のない笑顔で笑った。そう言われて初めて、彼が同じ気持ちで居てくれたことを知った。何度か仕事で会って、親睦会で顔を合わせていても、今日お互いのことを知り始めたような気がした。彼に話せてよかった。その実スターフェイズさんの広い懐に甘えてしまっただけだけれど、それでも聞いてもらうことで自分の心が幾分か荷を下ろしたのだ。

「……落ち着いた?」
彼は柔らかな表情で私に聞く。「はい、」と短く答えて、その上で私も彼に併せて笑う。
「ありがとうございます、ホントに。ちゃんと前向きに話さなきゃなって思いました。彼のこと好きだから、なおさら。…それに、私も彼に固執して、失いたくないからって焦ってたかも。」
それで自分を見失ってちゃダメですよね、と言うと、スターフェイズさんは頷いて呟く。

自身が自分を好きでいられることは、他の誰に好かれることにも増して価値のあることだってことを忘れちゃいけないよ。」
ぽん、と私の頭を撫でる。彼の手は節くれだっていて、綺麗で、その上私が想像しているより大きかった。彼の笑顔は顔の傷に半比例するように、その手は柔らかな布が包み込むように、ただ私の安心とは裏腹な微かな心の動揺を誘った。

「あ、これセクハラになるのか。」
焦って手を引っ込め、「すまないね、頑張っている子をみるとつい」なんて謝っている彼の手を、惜しむように見つめている私がいる。彼に父性じみたものを感じて、羞恥でも掻き立てられているのか。わからない自らの心のうちのまま、「いえ、」と笑って言葉を返すことしかできなかった。彼のこうした優しさのおかげで、私の凍てついた心臓がゆっくりと解けていくと同時に、今も照れくさそうに頭をかいている彼が、どうにも自分とは別のもので構成されているような、そんな気すらした。この気持ちのことを、人はなんと呼ぶのだろうか。


 そうこうしているうちに時間が経っていたのか、スターフェイズさんは時計を見るなり「なんだ、もうこんな時間か。」と呟いた。私もはたと携帯のディスプレイに表示された時間を確認すると、時間は始業の30分前だった。店を出るにはちょうどいい時間だ。「そろそろ出ましょうか、」と、私はまだほんのりとあたたかいコーヒーをテーブルに置き、道すがら来ていたコートとマフラーを羽織る。彼も同じく席を立って、物言わぬまま椅子に着せていたコートを羽織り、マフラーを首にかけた。バッグを肩にかけてコーヒーを手に取った私を見るなり、「じゃ、行こうか」と彼が椅子を引いてくれる。スマートで完璧な大人ぶりを見せつけられるなり、私はなんだかその行為が照れくさくて、ぬるくなったコーヒーを持つ手に汗をかいた。
 店を出て自分たちの向かう方向を確認したあと、店前で別れることになろうというとき、はたと思い出したように「ハンカチ、洗って返しますね。」と言うと、「あげたつもりだったけど、返してくれるのかい。」と驚いたような返答が返ってきた。
「当たり前じゃないですか。本当にスターフェイズさんは珍しいくらいいい人ですよね…本当にありがとうございます。」
私がそう言って笑うと、彼はさらに驚いた顔をして、その後口角だけを少し上げて、目元は私を淡々と見据えているような、剣呑な雰囲気を込めた笑みを浮かべた。その反応に今まで心当たりのなかった私は、スターフェイズさんの初めて見るような表情に、心臓が掴まれたような動揺を覚えた。

「俺はそんなにいい男じゃないよ。」
外套のポケットに手をいれたまま、彼は聞いたこともないような低い声で静かに言う。

「恋人とうまくいっていないのをいいことに君を口説いて、贅沢で不用心な男から奪おうとしているんだ。
そのハンカチも、君にもう一度会うための口実だと言ったら?」

彼の言葉が耳元で反芻する。まっすぐに対峙していて、彼は私の方を見ていて、その顔は確かに先ほどまで喋っていたスターフェイズさんのものなのに、誰か別の人の声を聴いている気すらした。
心臓が、煩い。俄かに喧騒が騒がしくなった街の中でも掻き消えることのない心臓の鼓動が、響いて、反響する。身体が動かない。さっきまで初めて彼を知ったような気がしていたのに、今の彼は先ほどまでの彼と全く別人のような雰囲気でもって、私の数歩先で対峙していた。身じろぎ一つできない私の様子に、彼はそのまま笑って続ける。

「ああ、君も随分と不用心だね。男の前でそんな話をして、誘ってくださいと言っているようなものだ。」

彼はそう言ってポケットから手を出し、私の方に伸ばす。身体がびく、と怖気づいて膠着した。俯いていると、彼は私の頭にまた同じように手を触れ、静かに撫でた。
「…なんてね。三十路過ぎた男の戯言なんて若い子に聞かせるものじゃないな。」

彼の手が離れる頃に顔を上げると、先ほどまでの剣呑な雰囲気は霧に溶けるように消えて、今まで私が見ていた彼の柔らかな雰囲気を纏っている。
「朝のブレイクに付き合ってくれてありがとう。じゃあ、僕はこれで。」

言うが早いか、彼は社の方へと歩き出した。その様子を惚けて眺めていると、数歩先で彼が振り向く。その表情には、先ほどまでの柔らかな笑みと、笑みの裏に隠された何かの両方が奇妙に共存しているようだった。

「そうだ、ハンカチはやっぱりあげるよ。」
思い出したかのような一言だったが、彼にとってはきっとそうではない。

「ただ、返してくれてもいい。君がそれを口実に僕に会いたい理由ができたらね。」

笑った彼の表情はすぐに視界から消え、雑踏の中に紛れ込んでいく。小さくなっていく大きな彼の背中に、「……ありがとう、ございます。」と呟くと、後ろ手にひらひらと手を振りながらその姿は消えていった。安心で満たされていたはずの心にできた綻びは、そこから糸を解くように順番に心を侵食していく。それは私の身体の細胞が警告を発するより早く、私の中の全てがそれを止められない速度で進む。秋が冬に変わるその街のあるカフェの玄関に立ち尽くしている私の心は、今朝ここに来たときとは違う人の姿で満たされ、包まれていくのだった。


真綿は酸素の代用品

170116